火龍は天に消えゆく
013:空に舞い上がる炎
靴の底で砂礫を踏みつける。建物が真っ当に建っていない。手抜き工事とありあわせの継ぎ接ぎでいたるところに抜け道がある。追われるたびに散らばっては集まるのを繰り返す。路地裏や廃ビルの構造は住んでいるものが一番良く知っている。隠しから煙草を出すと咥えて火をつけた。手首の返しで燐寸を点ける。粗悪品であるから火の保ちも悪くすぐに燃え尽きる。素早く煙草の先端を近づける。火がついたのを確認してから燐寸を吹き消した。燃え殻を捨てて煙草を吸う。深く吸い込むと舌の奥を刺激する。考えることは多い。
仲間内だけであったただの不良の集まりがだんだんと力を帯びてレジスタンスと呼ばれるそれにまで昇華した。発端であるナオトは自宅に帰れない日が続いた。半ば望んでもいる。煙草の箱から紙片を取り出す。何度もたたむのと開くのを繰り返されてきた紙片は擦り切れて、それでもナオトはそれを捨てられない。ナオトの家族は欠けている。父親の存在がすでにあやふやなのだ。年長で兄でもあるナオトがその状態であるから妹などいわんやである。そちらの父親は欠けてない。異父兄妹だ。ナオトの記憶に無い父親も妹のそばにいない父親も、それでも母親は逃げるように転居を繰り返す。ブリタニアという大国に宣戦布告されて、多分この日本は負けた。戦いがいつ始まっていつ終着したのかも一般人でしかないナオトには判らない。ただひどく虐げられるようになった。ブリタニア人と日本人は顔の造作が違うから見れば判るのだ。名前を名乗ればなお蹴られる。反発するように同じ不満を抱える仲良しがつるみだす。年齢も身分も問わなかった。いつの間にか膨れ上がった。相手の反応を見て酔いしれた。レジスタンスであるというレッテルを掲げて勇んで戦った。
指の間に挟んだ煙草を抜くと数瞬置いてから紫煙を吐いた。飲酒も煙草もいつの間にか覚えていてだからといって何が得られるわけでもなかった。からん、と小石の転がる音がして顔を向けると人の良さだけで出来た男がそこに居た。男と言ってもナオトと同じくらいの年齢だ。
「要?」
扇要。面白い名前だと思った。中華連邦に潜り込むときラクそうだな。
「良かった、見つかって」
ナオトの煙草に目を留めた扇が渋い顔をする。いる? と箱を差し出すのを扇は断ってナオトの隣へ立った。
「いつの間にか消えるのはやめてくれよ、肝が冷えるから」
「いつの間にかリーダーに持ち上げておいて言うね」
「しょうがない。ナオトの作戦が一番成功してるし効果があるみたいだから」
不意に吹き上げた風がナオトの手の中の紙片を揺らした。よどみなくも粗暴にはならない程度でナオトは紙片をしまった。写真だからなくしても始末が悪い。横目で眺めていた扇が静かに問うた。家、帰ったか? 帰ってないよ。心配するんじゃないか? 今忙しいんだ。養父のなり手が殺到してる。
ナオトの脳裏に赤い髪の妹が浮かんだ。燃える紅の髪がそのまま移ったように妹の気性はかなり激しい。混血として生まれたことを馬鹿にされる度に相手をぶちのめして帰ってくる。女の子なのに腕っ節は同年代の男の子ではかなわないくらいだ。その妹の行く先でナオトの家は翻弄されている。妹の父親はブリタニア人で、しかもそれなりの名家であるという触れ込みだ。本来ならばこのようなことは、とまえおかれるたびに飛びかかりそうな妹を抑えるのに苦労した。その関係で妹は母親ともども何度も何度も様々な場所へ呼び出されていた。母親が黙って従うと決めたのだ。ナオトの出る幕はなかった。
ナオトの目が扇を眺める。それで? わざわざ俺を探した理由って何? 扇が一瞬気がかりそうな顔をしたが困ったように、ウン、と相槌を打つ。
「リーダーに会わせろって騒いでるのがいてな」
「またか。レジスタンスのリーダーになんか会ってどうすんだろうね。政権が転覆でもしない限り役立たなさそうだけど」
それがちょっとタイプが違うんだよ。今までと。…なんだか、純粋にお前に会いたがってるみたいだったけど。…俺に? 転居の繰り返しでナオトははからずも印象に残らない処世術を覚えた。行く先々で繰り返されるそれはナオトの側の印象も消す。知り合いなんかいないけど。でも日本人だよ。名前はしっかり。性質としては珍しいかもな。扇が肩をすくめる。教職という圧倒的な数の個性を目にしてきた扇の感想に興味がわいた。会うよ。煙草を捨てて靴先で踏み消す。ナオト? 面白そうだ。扇は惑いと後悔と興味の入り混じった目でナオトを見てから肩を落として歩き出すナオトに従う。
「それで? 俺に会いたい奴ってのは誰」
一室に集められた少年少女は感嘆と憧憬でナオトを出迎えた。一見したところで扇がナオトを探すほど始末に困った形跡はない。まだあどけない子供からナオトより年長だろうものまで揃う。そっと耳打ちされる。別室です。はぁ? なんだそれ。暴れるもので。ナオトは溜め息をついてからそこはどこだと聞き返す。レジスタンスが明確に根城に出来る場所は少ない。情報や放映を見るために回路や回線が必要な場合はそれ専用に部屋をとる。それ以外は割合流動的で気を抜くと寝台に先客がいたりする。場所を聞いてそこへ向かおうとするナオトに扇がついていくかと訊いた。いらないよ。何かあったら困る。ナオトの口元がうっすら笑った。ないよ。だから要が俺を呼んだんだ。
砂礫を踏みしめて向かった部屋は外から支え棒をかませて開かないようになっている。そもそも気持ちばかりの素人集団に明確な資金源などない。真っ当ではない方法でありとあらゆる物資をかすめ取る。見張りはなし。不用心だけどおあつらえ向きだ。支え棒を取って扉を開ける。中にいたのは案外小柄で細身だった。
「生きてるか? 一応リーダーになってるナオトだ」
頬や服が汚れているのが乏しい光源でも判る。多少悶着があったかな。それでも小柄な彼は竦むこともなくナオトに横柄に言い切った。
「ほんとにお前がリーダーかよ。オレと歳変わらねぇじゃん」
見た目で判断するならたしかに彼とナオトの年齢は近そうだ。
「違ったとして確かめるすべがないな。保証もない。むやみに日本人を名乗ると痛い目見るぞ」
名前は? 俺に会いに来たとか言う物好きか? それとも、団体参加希望? ナオトは体を滑りこませて部屋の電灯をつけた。明かりが闇を払拭する。ラッキーだな、ここの電源は生きてる。むっと口元を引き結んだ彼は俊敏そうでそれでいてこんな部屋にぶち込まれるだけの無計画と無謀が見える。ただの馬鹿か。
「…玉城。玉城真一郎」
「本当に立派な和名だな」
それで? と問うのを玉城が知らぬふりをした。ブリキ野郎はぶん殴らねーと気がすまねー。ナオトが吹き出した。くっくっと微笑うのを玉城が噛み付く。なんだよ! いや、なんでもない。そうか、そうだよな。ナオトの目が眇められた。蘇芳の双眸が潤んで揺らめく。一人で笑うナオトを玉城が怪訝そうに眺めた。
「玉城真一郎だっけ? 面白い。一緒にやろうか」
喉の奥が切りつけられたように痛かった。
ばたばたばた、と走る音がする。ゆるい作りであるから壁を隔ててもある程度の気配がわかる。そばに居た扇も顔を上げた。きたぞ、とその目線が揶揄する。
「ナオト! かなめ!」
「遠慮ないなぁ」
ただのレジスタンスとはいえそれなりに組織として系統だつのに玉城はそういった柵が一切ない。仲間に入れてから玉城の人脈はあっという間に広がって、しかもそれは明確な手続きさえ踏まない。公私の入り混じった人脈で玉城は紹介状など一切持たない。それでいて団体の高位に目通りが叶うと疑いもしない。扇や周囲が何度かはねつけても懲りなかった。しまいにはありふれた光景として、いち構成員である玉城が幹部の扇やナオトのそばへ出入りした。扇もナオトも人数が増えて手の回らない場所が増えている。玉城はうまい具合にその隙間を埋めた。経費をちょろまかすのはその報酬だ。扇が時折叱りつけても直らないし、ナオトはそのつもりで放っておいている。
その暗黙の限界が近づきつつある。地下組織の常として酷なまでの成果主義がある。
「玉城、任せたい仕事があるんだ。できる?」
暗く揺らめく蘇芳はパッと華やぐ玉城を冷静に見つめる。できるぜ! 即答する玉城に不穏を感じ取った扇が待ったをかけた。玉城、よく考えて返事をしろよ。なんで? オレだってこのグループの一員だぜ! 玉城は無垢に不思議そうな顔をしてからエヘンと胸を張った。
「期日は3日だ。場所の確認は念入りに。あまり大人数は困るが数は少ないから人選は玉城に任せる。バックアップは回せない」
「へー…なんか重要そう…」
「結構、重要かな」
ナオトがにっこり笑った。自信がないなら退くんだ。後援はないからどんな状況になっても玉城にやってもらうことになる。だから出来ないなら名乗りでるな。
「判った。やる」
決意した玉城にナオトは微笑んで詳細情報を渡す。扇がひどくなにか言いたげに渋面を作る。意気込んで飛び出していく玉城の背中に手を振る。扉が閉まってから扇が異議を唱える。
「…ナオト。どうして玉城に、やらせるんだ。オレは反対だ」
ナオトはすでに知らぬふりで手元の資料を眺めた。玉城は入ってまだ日が浅いんだぞ。日が浅いからやらせるんだよ、要。…覚悟が。無いままズルズル居座られても困るんだ。ナオトは扇が玉城を可愛がっているのを知っている。ナオト自身も玉城は好きだ。地下組織だということを忘れるほど玉城は正義を見せてくれる。前向きだ。差別される日本人を見つければ飛び掛かるし、ブリタニア人に砂をかけることさえ構わない。だが。
「要。玉城はお稚児じゃないんだよ」
妾宅へ囲ってしまえばそういう言動さえなだめてしまう。ちょっと元気がいいで済む話は、所属が地下組織へ変わった瞬間、過激な反政府活動に括られる。何も咎めず構わずに隣へいられる期間は過ぎた。所属して日が浅い今しかない。切り捨てるときに周りを承知させやすい。まだあれは何も知りません。その言い訳が通る内に玉城の位置を決めたかった。
「…でも、ナオト。その仕事は…」
「要。俺達は今まで何をしてきたのか、忘れたとは言わせない」
殺しにかかってくる相手に丸腰で挑むつもりか? 扇の返事はなかった。ナオトは読みかけの資料へ目を戻した。意識の底がちりちりと灼ける。
「要、生きるっていうことはそれだけで、戦いなんだよ」
優しすぎる扇にナオトは微笑む。
「…ナオトは、強いな」
「弱いから群れるんだよ」
吐き捨てる強さに扇は口をつぐんだ。
仕事は成功した。玉城も戻ってきた。仕事の内容に対する不満や意見はなかった。不調も訴えない。いつもどおりで、ただ酒の量が増えた。扇が時折潰れた玉城を私室へ寝かせている。ナオトも何度かそうした。いつものとおりに泥酔した玉城を背負ってナオトはあてがわれた私室へ戻った。寝台の上に転がす。幸い、玉城は小柄であるし体つきも細いから運搬に苦労はしない。寝かせた体へ何度か呼びかけながら襟を緩めていく。歳が近いとは思えないほど玉城は幼く。それでも試すようなナオトに玉城は嫌な顔もしない。不調や不具合を訴えもしない。案外、芯があるのかも知れなかった。眠っているようで玉城のベルトも緩める。服の拘束を解いてやると気配が弛んだ。机へ向かおうとして背中を向けると服の裾が引かれた。玉城が繭のように丸まっているがその手がナオトの上着の裾を掴んでいた。
「起きてるのか」
「なー、ナオト。あのさ…」
ごく、とつばを飲む音が聞こえた。ナオトは寝台の縁へ腰を下ろす。廃墟から引っ張ってきたマットレスであるからいつ壊れてもおかしくない。布団を重ねて敷いた。ナオトは黙って続きを待つ。ナオトはゆっくりと振り返ると玉城の肩を掴んだ。慄えてはいない。
仰臥させることにも抵抗しない。玉城は揃いのヘアバンドをしている。参加が決まった時に真っ先に揃えた。地下組織であるから制服のような明確な揃えは出来ない。誰かが捕まった時に芋づる式に組織が知れても困る。それでも誰からともなく小物を揃え、いつの間にかヘアバンドが揃った。自腹だ。配給するほどこの団体の資金は潤沢ではない。
「玉城…」
幼い頬と首を撫でる。緩めた襟元から慄える胸部が覗く。喘ぐように開いた口をふさぐ。舌を絡めて吸い上げれば吐息のような声が漏れた。火照って熱い。玉城の皮膚と触れている場所から感覚が失せていく。熱にとろけた皮膚は溶解して直ぐに自分の体を見失う。酒精の入っている玉城の体は更に弛い。眦や耳をくすぐって髪を梳く。玉城の髪は短いし硬い。同じ日本人であるつもりなのにナオトの色合いとは違い過ぎた。ナオトの髪は似紫で黒いのか紅いのか判らない。顔の輪郭を覆うように垂れた髪が幕のように二人を遮る。
ナオトの指が這う。尖った喉仏を撫でて鎖骨のくぼみへ至る。玉城の声がする。しきりにナオトの名を呼んだ。玉城の声が好きだ。耳朶を打つ声はもう完全に男のそれであるのに滞らない。そのまま流れ込んでくる声は警戒さえも取っ払う。玉城が団体に馴染むのは図々しいほど親しげだからだ。落ち込めば何やってんだと粗暴に叱咤する。口先ばかりという悪評さえも取り込む。玉城は大多数の意識を代弁する。これが一般という感覚なのだとナオトは不意に思い出す。ナオトは生まれも今も一般とは言いがたい。だからひどく憧れる。
ナオトの体が寝台の上に乗る。玉城の脚の間へ位置をとる。
「真一郎、セックス、しようか」
ナオトが蘇芳を眇める。開かれた襟元へ唇を寄せる。舌を這わせても玉城は抵抗しない。鼓動が伝わる。玉城の鼓動は少し早くて四肢も温もっている。
「おいっ、な、なおと?」
口をふさぐように指を突っ込む。嘔吐く気配がしたが構わずに行為を続けた。玉城の体は素直だ。すんなり伸びた四肢や、性質として素直なのだ。抵抗されなくなって指を抜く。
濡れた指が留め具を外す。皮膚を撫でていくことさえ嫌わない。懐は深いのかもしれないと思う。受け入れるのは案外難しい。
「こんなことして、いいのかよ…」
びくり、と震えてナオトが体を起こす。玉城はいい子だな。ナオトの冷たい手が玉城の下腹部へ滑り込む。震えて跳ね上がる体をナオトが噛み付くように制止した。
「すきだよ」
だから食われて。抱かれて。
「なー…ナオト、オレたち、親友だよな?」
頬杖をついてぼんやりと虚空を見つめた。その頭を思い切り叩かれた。ファイルを携えた扇が呆れ顔で立っていた。むっとして睨んでも扇は怯みさえしない。付き合いの長さでお互いの許容範囲も判っている。ナオト、最近おかしいぞ。おかしいってなんだよ。心ここにあらずって感じがする。扇の見立ては案外正確で思わぬ深部を指摘される。…玉城は? あれからナオトは何度か玉城と交渉を持った。ナオトが立場を譲らなくても玉城は何も言わなかったし互いに満足しているはずだった。
「玉城? いつもどおりだ。相変わらず話の内容は曖昧でスケールは大きいよ」
「なぁ要…『おれたち、親友だよな』?」
きょとんと扇がナオトを見た。扇とはこのレジスタンスを結成する前からの知己だ。ナオトの複雑な家庭事情を知っていて黙っていてくれる貴重な知り合いだ。
「何言ってるんだ? もちろん、そうだよ」
「ありがとう、要。親友じゃないって言われたらショックかな」
「オレにはなんとも言えないけど。ただ親友はそうそうたくさんできないと思うけどな」
「玉城の親友はいっぱいいる」
「あれは親友って言うよりコネのつもりなんじゃないか」
ばたり、とナオトが机に臥せった。書類がひらひらと飛散する。
玉城がなにか問題でも起こしたか? 扇の懸念は最もだ。問題は起こしてないんだけどなぁ。
「なぁナオト。それよりカレンを見かけたっていう報告が相次いでるぞ」
「カレン?」
ナオトの妹だ。そういえば最近しきりにどこへ行くのか訊いてくるし、どうも後をつけている。その尾行を撒いてから根城へ入るナオトだが、それを追っていてうろついているようだ。
「カレンには母さんのそばにいるように言ってあるんだけどなぁ」
「カレンは気が強いから…」
「まぁあれは守るより攻撃するタイプだよな。近所の悪ガキを殲滅したってさ」
「…冗談に聞こえないんだけどな、それ…」
ナオトの目が泳いだ。玉城の態度は普通。ナオトは席を立つと部屋を飛び出す。手元に集中している扇は気づかない。そのまま構成員がたむろす場所へ顔を出す。
「ナオト!」
お前もこっちに来いよ! 尊大なほどの態度で呼び寄せる玉城は優越と幸福で口元が緩んでいる。
「ナオトはオレの親友だからな!」
新参の構成員が感嘆の声を漏らして玉城を見上げる。ナオトが玉城を抱き寄せた。その耳朶でささやく。俺が死んだらこのグループ、頼むから。ばち、と弾かれたように凝視する玉城にキスしてな音が絡めた腕をほどいた。
「…――なんだよ。なにしけたこと言ってんだよ、ナオト」
「あぁ、ごめん。なんとなく」
要と仲良くね。要は結構あれで神経が細いから注意してやれよ。ツバメのように翻るナオトの後を玉城が追った。今のどういう意味だよ。意味の有る無しを感じ取れるくらいにはなったんだな。だってさ、ナオトいまのってまるで。踵を返してキスをした。真一郎は可愛いね。体の反応もいいしさ。…じゃあ、もっと、抱けば?
ナオトは返事をしない。場を繋ぎたくて玉城は無為に言葉を紡ぐ。そうでもしないとナオトがすぐにでも消えてしまいそうだった。
「なー、そういえばナオトの名字ってないのかよ」
いつもナオトって呼んでるから。ナオトは薄く笑った。
「こうげつ。紅月ナオトだよ」
妖艶な笑みを玉城の脳裏へ焼きつけて、ナオトは行方を眩ませた。
《了》